「甲府までお願いします。観光がしたいの」
練馬で朝一番にお乗せしたお客様は、そうおっしゃいました。
ご高齢の女性です。びっくりしました。まさか甲府までなんて。
「桃の花が見たいんです」
お客様をお乗せして、私は走り出しました。
甲府に到着。
残念ながら桃の季節は終わっていたので、
スマホで調べて梅の花をご案内しました。
「お昼ご飯もぜひ一緒に」とのお誘いに甘えて、
おそば屋さんにも行きました。
練馬に帰ってきたのは4時頃。売上は9万円にもなりました。
「また来年もお願いね」
降りていったお客様の背中を見ながら、
私は故郷に暮らす母を思い出しました。
お客様は一人暮らしとのこと。
一日だけでも息子さんの代わりを務められたなら、
私も嬉しく思いました。
東京の街が大好きだ。東京の道も大好きだ。
「青梅街道って、昔は路面電車が走ってたのよ」
秘密を明かすようないたずらっぽい口調で、
そんなことを教えてくれたお客様がいた。
いつの時代の話だろう。
とても想像できない、
この道の真ん中を電車が走っていたなんて。
いつもの当たり前の風景が違って見えてきて、
大好きだった道が、もっと好きになっていく。
こんなふうに東京の街を走っていると、
いろんな新しい物語に出会える。
次にまた走るのが楽しみになってくる。
そして気がついた。
一番好きなのは、
東京の街でお乗せする“人”だということに。
お乗せしたのは、新米ママと新米パパ、
そして生まれたばかりの赤ちゃん。
病院から連絡を受けて、お迎えに行きました。
誇らしげに、そして少しこわごわと赤ちゃんを抱っこするママ。
そっと寄り添って、包み込むように座るパパ。
もちろん、わかっています。
何も言われなくても、いつにも増して安全第一。
ブレーキは丁寧に、コーナーもゆっくりと──。
赤ちゃんはすやすやと眠っていて、
車内はなんとも言えないハッピーな空気でいっぱいです。
2人で後にした我が家に、3人で帰り着きました。
「安全運転をありがとうございました」
そんな一言を残して降りていったお客様に、
私は心の中で伝えました。
“こんなおめでたい日に乗ってくださってありがとう!”
それはちょっとしたミスが原因だった。
だから気を付けていれば防げたミスだった。
防げなかったのは、どこかが緩んでいたからに違いない。
「頼りにしているんだから、しっかりしてね」
お客様のお叱りは当然のこと。失望させてしまったのだ。
でもそれは期待の裏返し。
それがわかるから、なおのこと、ミスが許されない。
確かに予約の時間に遅れたのは、10分だけだった。
そして病院の予約時間には、ちゃんと間に合うことができた。
それでもお客様をお待たせしてしまったことに変わりはない。
たった10分ではない。とても重い10分なのだ。
そんな想いの積み重ねが、信頼を生む。成長につながる。
ミスは繰り返さない。絶対に。
顔を上げ、決意を新たにする。
「新人だからわからないんです」
乗務員初日、初めてお乗せしたお客様に、
私はそう言ってしまいました。
道がまったくわからず、正直にそうお伝えしたのです。
きっとお叱りを受けるだろうと、身を固くして。
ところがそのお客様は笑い出して
「これがわからないなら、どこもわからないだろうね」
と道案内をしてくださったんです。
何のことはない、その道をただまっすぐ行けばいいだけでした。
優しいお客様でホッとしました。
ところが2番目のお客様も、
3番目のお客様も同じ反応だったのです。
お客様ってけっこうあったかいんだなあ。しみじみ思いました。
正直、お客様がこわかった。厳しい言葉を覚悟していた。
でもそんなことはなかったんです。
「ベテランだって最初は何もわからないんだよ」と言われ、
胸が熱くなりました。
大丈夫、きっと続けていける。
そのとき芽生えた自信が、今日まで続く私の原動力です。